ノート

京都に住む大学生がうんうん唸りながら好き勝手に書いた文章をすっきり流すトイレのような場所です

キャンメイクのマシュマロフィニッシュパウダーを買った日

キャンメイクのマシュマロフィニッシュパウダーを買った、という日記。

さっそく使ってみた。今日もいつも通り日焼け止めしか塗っていなかったので、まずBBクリームを塗る。パウダーの効果を知りたいと思って、最初は顔の左半分にだけ施してみる。明るい窓際でBBクリームを塗ると、それだけで少し肌が明るく見えるのがわかった。色のむらやくすみが軽減されているようだった。その上からパウダーを重ねる。適量がまったくわからないのでものすごく薄づきにしてしまう。なるほどマシュマロという名前がついているのも納得だった。ツヤ感/マット、という二軸で言うなら明らかにマット側だった。でも照明を浴びるとその光を反射して頬の高いところが柔らかく光る部分もある。こういうのをセミマットというんでしょうか。

パウダーを塗る動作はすごく「化粧をしている」感じでテンションが上がる。小さい子供、まだ一桁の年齢の子が思い描く化粧のイメージは丸いパフで頬に粉をはたいている様子と、口紅を塗っている様子。パウダーの塗り方はよくわからないけど、きっとあんな感じを思い浮かべれば正解なんだろうな。

厚塗りになるとかなり「化粧しました! 粉で覆いました!」という印象になりそうだから、塗っている最中は「ついてんのかついてないのか…?」と思うくらいでちょうどよさそう。最中は加減がわからなくて、終えたあとにちょっと冷静になってもう一度見たときに初めてどのくらい化粧が施されているのかがわかる。おそらく鏡との距離の問題だろうか。最中は鏡と自分との距離が近すぎて顔全体が見えず、他のパーツとのバランスがわからなくて加減を把握できなくなるんだろうか。鏡は遠くにおいたほうがよさそうだけど、そうなるとあらが出そうで不安だ。しばらく使って慣れたら鏡を遠ざけて化粧できるだろうか。
肌がきれいに見えて嬉しかった。でも顔がのっぺりして見える気もした。こうやって色ムラを除いて「元々トラブルのないすべすべの肌なんです〜」に見えるような土台をまず作って、それからハイライトとシェーディングをするんだろう。化粧にいくつもの工程を設けて、それらすべてを必要不可欠であるかのように語る人たちを初めて少し理解することができたかもしれない。ひとつやるとさらに必要になる。コンシーラーでくまを隠したら目の下がさみしくて頬が広く見えるから、わざわざまた涙袋を作り直す。いったん壊して再構築する。時間をかけて化粧をしている人は毎日自分の顔の上に破壊と創造を行っている。
私はふだん、顔にかぎらず「足して引いてからまた足して」を繰り返していると頭がおかしくなりそうになる。事あるごとに手を石鹸で洗って、アルコールで消毒して、ガサガサになるからハンドクリームを塗る。顔には落ちにくい化粧品を何層もつけて、しつこい自転車汚れすらきれいさっぱり落とせるような強力なクレンジングオイルで拭って洗顔して保湿する。足して、引いて、を繰り返して「私はなにをやっとるんや!??」と混乱する。沸かしたお湯を氷水で必死に冷やすようなエネルギーの無駄遣いに思える。どうせならスキー場と温泉を往復するようなエネルギーの使い方をしたいんだけどな。化粧にかける労力は最低限にしたいし、今のところ私は毎朝リセットと再構築をする気にはなれない。でも慣れたらそうしないと気が済まなくなるんだろうか。今だって毎日シャワーのあとに化粧水と乳液で保湿している。歯磨きも毎日している。そうしなくては気持ちが悪いと思ってしまう。化粧もそうなるのかな。こうやって自分にかける手数が増えていくのは、シャワーや就寝などの必要不可欠な行動に付随するストレスが増していくようでこわい。

社会人になったら毎朝それなりに化粧をしなくてはいけないんだっけ。そういう規範はばかばかしいなと思うし面倒だし無視することもできるけど、それはそれとして自分をきれいに見せたい、強く見せたい、という気持ちもある。ほとんど意地のようなものだ。私は愛でられる存在よりも敬意を持たれる存在になりたいと思っている。仕事もできて見た目もぱりっとさせていて格好良い人だ、と思われたい。そういう背伸びがあるので多分社会人になった私はそれなりに化粧をする。毎朝一大工事をするようになった私はどんな考え方になっているだろうか。食べて出してまた食べるために料理をするように、散らかした部屋を掃除するように、顔をまっさらな状態にして飾ることを毎日繰り返すことが自分の生活のナチュラルな姿になるだろうか。
今日は筆が乗る。やったことといえば「マシュマロフィニッシュパウダー」を買って、実際にそれをつけてみただけだ。それだけでこんなに書くことがあるのはちょっとおかしい。文章を書くことで自分の思考が整理されていっているなと思うときもある。しかし書けすぎるときは大抵、使ってみたくなった言葉を試しに並べているだけのことが多い。それをさも自分の芯から出てきた思考のように捉えてしまうと危険だ。どこまでが感じたことで、どこからが並べただけの言葉なのか、境界線は曖昧だけど目を凝らして探しつづけなければ自分の言葉に飲み込まれる。言語化はおそろしい。

私が小さい頃に経験したと思っている記憶の4分の1くらいは、何度も繰り返し思い出して言葉に置き換えていって、「実際」からは遠く離れた言葉の跡かもしれない。「実際」の記憶なんてあったものではない、と言う人もいるだろうけど。でも疑問を持たずに記憶や感情を片っ端から言葉に置き換えていく作業を続けていたら、私はそのうち事実/感情、主観/客観のようなものがわからなくなって、自分の知覚も信じられなくなっていくかもしれない。文章を書くのもほどほどがいい。言語化せずに保存しておくことは難しいけど、なんとか言葉にしないままでとっておく、というのも一つの「大切にする」の手段かもしれない。

昼過ぎで、おなかがすいた。朝昼兼用でしっかりごはんを食べたとはいえ、10時半くらいに食事を摂るとこの時間にどうしてもおなかがすいてしまう。八朔を食べた。それでは足りなくてお餅を焼いて、途中で思いついてチーズとじゃこを乗せてマジックソルトで味付けして、裏返して、「ピザ風チーズ餅」みたいな料理を作った。ケチャップで食べた。私はマヨネーズとケチャップを普段ほぼまったく使わないので意識的に消費していかないといつまでたっても減らない。マヨネーズと違って、ケチャップはある程度多めにかけても味が濃くなりすぎないので心臓に優しい。おいしかった。化粧をしている日は顔の口周りに食事の油が散るのを少し気にしなくてはいけない。顔に何層もいろんなものを塗っている人は、雨の日に外に出るのがめちゃくちゃ嫌なんじゃなかろうか。クリームや粉をミルフィーユ上に仕立て上げて、せっかく手間暇かけてきれいにしたのに、泥水が顔にかかったらとんでもなくがっかりしそうだ。汚れやすい場所でバイトしているのに化粧もしている人たちはすごくポーカーフェイスがうまいんじゃないだろうか。こんなに時間をかけた化粧の上にビールの泡が散った…! と思っていても笑顔で対応しているとしたら、すごい役者だ。化粧はひとつの面だ。